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Miyajima News
2008年5月12日
【玄関前に置いてある砲身について】
弊社の玄関前には、写真のような赤茶けた鉄の塊が置いてあります。
これは実は大変貴重な品物で、1917年(大正6年)に竣工した
戦艦「伊勢」の副砲の砲身の根元部分なのです。
なぜこんなものが弊社にあるのかというと、鍛造機にはアンビル(金床)といって
鍛造で鋼を成形するための力を受ける鉄の塊(料理で言えばまな板のようなもの)が
必要なのですが、昔弊社が創業間もない頃はそれを買うお金もなく、父が大阪で
終戦後の払い下げ品の中からこれを見つけ、アンビルに使えそうだと買ってきた
ものが残っていたのです。
残っている部分だけで重さが2.5トンもあったので捨てるに捨てられず、
それなら21世紀スタートのモニュメントにでもしようと思いついて
2000年の12月に事務所玄関前に設置しました。
その際、砲身の尾栓部分に写真のような刻印がうっすらと残っていたので
それをなんとか読み取り、上の写真のようなステンレスの銘板を作成しました。
(「碇(いかり)に桜」の海軍マークがいい感じです)
ここには「呉海軍工廠 第1号砲 50口径 重量6200Kg 大正2年製造」としか
書かれていないため、何の船に載っていたのかずっと疑問に思っていました。
ところが2年前に呉に住む同業の先輩にこの話をしたところ、「大和ミュージアムの
学芸員の人に一度訊いてあげよう」ということで調べて戴きました。
その結果、齋藤義朗さんという親切な学芸員さんのおかげで山田太郎氏という、
呉海軍工廠のことに関しては第一人者といえる方に辿り着くことができ、
弊社の砲身の出所について教えていただくことができたのです。
山田太郎氏は1928年(昭和3年)のお生まれで、昔海軍に2年所属されていた
とのこと。日本銃砲史学会会員で『呉海軍工廠製鋼部史料集成』などを編纂
されたまさに呉海軍工廠の“生き字引”のような方です。
80歳になる現在もご健在であり、その時下記のような推論を賜りました。
ご本人のご了解を得てご紹介させていただきます。
『資料受け取り一読、直ちに(株)ミヤジマに電話して、砲口の直径を計測してもらい
ました。14.5糎と返事がありました。砲口の直径は条丘から直径対称の条丘まで
を測らねばなりませんが、条丘がこんなに錆と欠落があれば正確な計測は無理と
考え、元の数値は15糎ではなく14糎だったと推定しました。
日本の戦艦の副砲には次のものがありました。
1.英国ビッカース社から購入した金剛の副砲
50口径15糎 V式尾栓
この15糎は6吋で15.24糎
2.日本で見倣って建造した霧島などの副砲
50口径15糎 四一式尾栓
この15糎も15.24糎
尾栓は明治41年採用のもの
3.副砲の弾丸装填は人力でやるため、15糎弾丸は日本人に過重で、14糎弾丸
に改造した。
伊勢・日向・長門・陸奥の副砲
50口径14糎 三年式尾栓
尾栓は大正3年採用のもの
日本海軍はメートル法に改めたから14.00糎である。
4.大和の副砲は軽巡の主砲15.5糎砲を転用したもの
そこで、資料写真の砲は伊勢級か長門級のものでしょうが、伊勢も日向も終戦時
は呉湾で沈置していましたから、建造順から考えても伊勢のものかもしれません。
資料写真にある看板は、砲尾に彫り込んである文字を復元したもので、大正2年
に三年式尾栓を製造したかどうか私には何とも言えません。50口径とは砲口の直径
で砲長を割ったものです。14糎掛ける50では700糎となり、砲口から尾栓頭ま
での距離が7米あるということです。14糎尾栓の長さがいくらあったかは私にはわ
かりませんが、20から30糎ぐらいと思います。したがって全長は7米20から30糎
となります。
(中略)
山田太郎』
カットされた端面(上面)にある砲口の螺旋状の溝
以上のような実に貴重な鑑定を2年前に頂戴し、戦艦「伊勢」の副砲という銘板を
追加製作したのですが、弊社にお見えになるお客様はさすがに鉄関係の人だけ
あって興味をもたれる方が多く、よく質問をお受けしますので今回このページを
まとめさせていただいた次第です。
戦艦「伊勢」の副砲が幾多の波乱万丈の歴史を経た今、遠く離れた滋賀の地の、
「多賀」大社のすぐ側にある弊社の玄関に鎮座しているということに
不思議なご縁を感じます。
調査にあたり、ご協力いただいた同業先輩の市林法行氏、呉市学芸員の
齋藤義朗氏、そして呉海軍工廠専門家の山田太郎氏に心よりお礼申し上げます。
H20.5.5
株式会社ミヤジマ 宮嶋誠一郎