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Miyajima News
2014年9月1日
白隠禅師の『座禅和讃』
【H26年(2014年)9月のコラム(第165号)】
白隠禅師 『直指人心 見性成佛』
(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)
「人の心の奥底をしっかりと見つめれば、
ものごとの本質がみえて悟りを得ることができる」
すなわち
「理屈をいろいろこねるより、ひたすら座禅せよ」
という禅の本質を突いた言葉
1.白隠禅師の『座禅和讃』
白隠禅師(はくいんぜんじ)の座禅和讃(ざぜんわさん)というものを
二年がかりで覚えることができた。
白隠禅師というのは、禅宗の一つである臨済宗の中興の祖といわれる
江戸時代中期の禅僧である。
上の絵をはじめ、なかなかおもしろい絵を描かれるので好きである。
そもそもは、私の経営の師である稲盛和夫氏が、お話の中で時々この「座禅和讃」の
ことを話されていたので「よし自分も覚えるか」と単純に思い立ったのが始まりである。
2年前にたまたま稲盛さんの目の前でお話をする機会があり、ちょっと覚えただけなのに
いい恰好をして「座禅和讃を暗誦します!」と宣言して始めたところ、見事にずっこけ!!
大恥をかいてしまったが、稲盛さんはニコニコして見守って下さっていた。
その時の「やっぱり付け焼刃ではイカン」という反省から、この二年間、朝晩の犬の
散歩の折などにずっとこの「座禅和讃」を暗誦しながら歩いてきた。
周りからは気持ち悪いおっさんだと思われたことだろう。
いや、それ以上に愛犬チャイは迷惑だったろう・・・。
でもそのおかげで、今ではやっとすらすらとよそ事を考えながらでも間違えずに暗誦できる
ようになった。
というその「座禅和讃」なるものは、いかなるものか? (「座禅和讃」本文)
それは
「衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なし。」
という一文から始まる。
意味は「この世に生きている私たちは、本来仏と同じである。水と氷の関係と同じで、
水と氷がまったく別物ではないように、俗人も仏も実は同じなのである」
ということである。
このあたり、実は「般若心経」と似ている。「この世のすべての物は『空』である。
お金があるとかないとか、見た目がいいとか悪いとか、そういうものにとらわれるな。」
というのが般若心経の言っているところであるが、このあたりの本質は「座禅和讃」も
同じである。
なにが違うかというと、やはり座禅和讃は禅宗の教えなので「答えは座禅の中にある」
ということだと思う。具体的には
「闇路に闇路を踏みそえて いつか生死(しょうじ)を離るべき
夫れ摩訶衍(まかえん)の禅定(ぜんじょう)は 称歎(しょうたん)するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり」
(迷いながら生きていて、いつになれば生死の因縁を断ち切れるのか?
それには「禅定」(ぜんじょう:心を静めること)こそが最高の道である。
「布施」や「持戒」という六波羅蜜の教えや、「念仏」「懺悔」「修業」といった
仏教にはさまざまな善い行いがあるが、すべてこの「禅定」に含まれるものである)
ということを、座禅和讃は言っている。
しかし、なにも「禅定」とは座禅を組むことだけがすべてではない。
大事なことは、日々の暮らしの中で少しでも「心を静める時間」をつくりなさい
ということなのである。(と僕は理解している)
特に今は世の中に情報が溢れ過ぎていて、それに溺れがちだからこそ大事だと思う。
「心を静める」というのは、なにも考えずにぼーっとしているのでもよし、一日のことを反省する
のでもよし、いや、もっと言えば心静かにコーヒー豆をゴリゴリ擂ってドリップで淹れ、それを
ほっとしながら飲むのでもいいと思う。そういう「ひととき」が一日の中でどれだけあるか・・・
そこが大事なのだということが、最近少しはわかったような気がする。
僕の場合は、朝晩の犬の散歩の時がそうである。晴れの日も雨の日も、風の日も雪の日も
犬が行きたいという限り必ず行くのであるが、その時に朝は朝顔を見つけたり、雲雀の鳴き声を
聴いたり、夜には星空をながめたりというひとときが、僕にはなによりの癒しである。一人でなく、
横に愛犬チャイがいてくれるというのが、なおのことよい。チャイ、いつもありがとねー。
新幹線のグリーン車に乗ると「WEDGE」という経済誌のほかに「ひととき」というエッセーとかが
メインの雑誌が置いてあるが、この「ひととき」こそが、日々の中で大事じゃないかな・・・と思う。
愛知県渥美半島の先端、伊良湖の抜けるような青い空
(2014.7.12撮影)